「古本屋さんて棚に並んだ本全部読んでいるの?」
「いいえ」
「でも、読んでるから値段を付けられるんでしょ?」
「いいえ」
「じゃあ何の本なのかもわからずに適当に値段を付けてるの?」
「いいえ」
「読みもせずに本当の価値はわからないでしょ?」
「…いいえ」
「…」
「…」
突然会話形式で始めましたが、基本的にこれらの質問に対しては全て「いいえ」です。
決してそれがベストだとは思っていません。
そりゃあ扱う全ての本を読破した上で売りに出す方が美しい形の様な気がします。
本屋側もそう思っています。
例えば、小説だけを扱っている本屋なら、頭から尻まで読まないとその価値はわからないと思います。基本的には。よく、名作のあらすじだけを知る為の本がありますが、個人的には邪道だと思っています。
しかし、本という物はありとあらゆるジャンルがあります。どんな事柄についてもそれに関する本は存在します。衣食住排泄性行為来し方行く末憂国革命興味趣味暇つぶしゴシップつぶやきから財テクまで、およそ考え得る限りどんな概念についても、そのことに関する本は存在します。「本のことについて書いた本」というのも一大ジャンルです。本の成り立ちや形態を研究する学問「書誌学」は、ウィキペディアによれば紀元前200年から存在するらしい。
そういったことをふまえて言えることは、「本というものは巻頭から巻末まで一言一句読むものだ」という考え方は、必ずしも多数派ではない、ということです。
職業柄、大量の本を持っている人のお宅に伺う機会は多いのですが、数千冊・数万冊の蔵書がある方も、「まあ実際はほとんど読んでなくて…」と語られるケースが多々あります。(蔵書家が自嘲気味に本集めについて語ることについてはまた別項で)
逆説的に言えば、蔵書を全て読破している人は蔵書家ではない、とも言えるかもしれません。
読む本は全て図書館で借りるので一冊も持っていないという人も本好きではあるのでしょうが、まあ我々は商売としてお客様と接するので、本を買わない人はそもそも関わらないという面もあります… でも本当に好きなら購入して手中に収めたいものでしょう。人情として。買わずして何の為の本か。借りてどうする。
…ちょっと文章が荒れてきましたが、古本屋が売り物の全てを読んでいないというのは、惰性の面も無きにしもあらずだが、当然の面もある、ということです。
極端な例を言えば、辞書というものは日本で義務教育を受けた人なら大抵一度は所有したことがあるけれど、辞書を一言一句漏らさず読破したという人はほぼいないでしょう。編集代表の人以外いないのではないか。たまに目的も無く辞書を開いて読むのが楽しいと言う人もいるけれど、その人にしたって頭から終わりまで読んではいないでしょう。
長くなりましたが、本題に入ります。
古本屋はなぜ読んでいないのに本の価値付けが出来るのか、ということです。
まず、身も蓋も無い言い方をしてしまえば相場があるからです。
どんな本か知らなくても相場は知っているということはままあります。
しかし、あらゆる本に関して完璧に相場に通じている人というのは存在しない。それでも、相場を知らなくても値踏みは出来ます。近代に入ってから刊行された本についてはその傾向がより顕著です。
なぜか。
古本屋を揶揄する古い言葉に「題名博士」というものがあります。
要は、題名はよく知っているが、中身は知らないという意味です。
これはまあ表現の切れ味を増す為に極端な言い方をしていて、良識ある本屋はこの本はこういうことが書いてある本だということは理解して売っています。でないと分類も出来ません。また、こういう分野でこういう特色がある、ということもわからないと価値付も出来ません。同じ分野の本でもこの本は安い、この本は高いというのは内容を見て判断するのですが、これはいわゆる「読書」という行為とはまた違います。
古本屋というのはある程度年数やっていると、本を見ると大体これくらいかな、とイメージ出来る様になります。
これは私も最初は不思議でしたが、段々に、なんとなく出来る様になってくる。
もちろん例外はあって、知る人ぞ知る本、羊の皮をかぶった狼の様な本もあります。
同業者市などでそういう本があると、「何であんな本があんな高いの?」という話題で盛り上がります。
それがよく見る本なのに高い場合は、どこかの業者が高く買いすぎていたり、メディア等で取り上げられて一時的に高騰していたり、
それが滅多に出ない本の場合は、見た目は安そうに見えるが幻の本であったり、本の中の一部分だけが特別な仕様であったり、と何か固有の理由が必ずあります。
それ以外は、知っていようが知っていまいが、こういった体裁の本はこれぐらいの価格だろうな、と古本屋同士である程度のコンセンサスが出来ているので、特に話題にもなりません。
私などは古典籍についてはまだまだ駆け出しなので、同業他店の値段に驚くこともしばしばですが、ここ数十年の間に刊行された本は、安過ぎて驚くことはあっても、想像より異常に高いということは滅多にありません。
特に昭和~平成の本については定価も明記されている物がほとんどなので、定価と較べてどの程度価値があるのか、というのは比較的容易に判断できます。
(古書価が数年で暴落していて、高く査定しすぎるということはままありますが、まあこれはお客様にとって得はあっても損は無いので、許されるでしょう)
そして、独立独歩、離れ小島で一人古書店を営んでいる人なら独善的な価格を付けていることもありますが、我々の如き組合加盟の古書店は日々業者市で、その価値付け、相場感覚の誤差を修正しています。業者市とはつまり競りなので、他店より10円でも安い値段を付けたら、その本を手にすることは出来ません。その本が5,000円なのか4,990円なのか、10万円なのか11万円なのかを真剣に考えるのです。
小店の様な零細古書店がホームページを必死で作って、フリーダイヤルをひいて、こんな駄文まで書いて「本を売ってくれ本を売ってくれ」と訴えるのは、当然ながらもっと本が欲しいからです。
本を売って下さるお客様に査定額を提示する時はいつも緊張します。
それは、正当な価格を提示しないと売って頂けないだろうからです。
この時の気持ちは前述の業者市での気持ちと同じです。少しでも高く提示しないと手にすることが出来ないのではないかと思うわけです。
我々は所詮、値段でしか本を評価出来ませんが、逆に言えばその本に対して値段で評価をしているのです。内容に反して価値が低い本も時代時代で存在します。その際は小店はそのことを申し上げます。「この本はいい本ですが、今の時代は安くしか評価出来ないので、今売らない方がいいと思います」と必ず言います。それでも売られるという場合は、相場を超えて買い取る場合もあります。それはそれぐらいの価値があって然るべきだというこちらの意地の様なものです。
あなたの蔵書を梁山泊はいくらで評価するのか。
試してみて下さい。